Sugar Jam

彼女の宝具レベルを5にしたいんだ

頑張れは否定的であるということ

 他人からの期待や応援が、何かを成す原動力になる人が居ます。わたしです。

 ところで「応援」って言ったら当たり前のように「頑張って」と言う人多いですよね。

 頑張れ頑張れ。過ぎたる2015年、エロ界隈でちょっとしたトレンドになった台詞でもあります。

 おねショタだとか風俗プレイだとか委細はどうでもいいんですが、基本的にこれは相手(主に女性)の母性、包容力の部分に甘え、依存した気持ちで手コキなりパイズリなりされて射精する部分に良さがあるようです。

 本来射精は男性が能動的に行うものであって、その部分を女性に甘えて任せっきりで本人はおっぱいを吸うだ女体を抱きしめるだとしている内に済ませちゃうというのはまあ言ってしまえば役割の放棄であり、その作品において女性は奉仕的でありながらも男性より上位に居るものであると読者に認識させてくれます。

 委細はどうでもいいと言いながら。とにかく思うのです。「頑張れ」って言葉は、本当に自分を甘えさせてくれるのでしょうか。

「頑張れ」が持つ辞書的な意味に言及する必要はありませんが、ネットの辞書で引いてみると(※)「頑張れ(頑張る)」とは、要するに努力や忍耐のことです。

 はい。

 結論を言うと、そもそも努力すること、耐え忍ぶことが苦手な人間にとって、「頑張れ」って言葉は苦痛でしかないことが分かりますね。

 これは今更言うまでもなく、(※)している段階で「頑張れ」でググったら似たようなことを言っているブログやら何やらが続々出てきました。「頑張れ」ってのは場合によっては、応援や励ましの言葉にはならねぇぞ、と。

 一般的な感性を持っている人でさえそう感じてしまうのです。だから、私のようなクソ甘え人間にとっては、場合になんてよらず、いつだって「頑張れ」は応援にも励ましにもならないのは当たり前のことだと思っていただけるでしょうか。

 私の脳みそは、タイトル通り、「頑張れ」を否定的に捉えます。

「頑張れ」に限らず、能動的な応援の多くは否定であると認識するでしょう。

 何を否定されている気持ちになるかと言ったらもちろん、それは『今の自分』です。

 考えてもみてください。学生であることを終えて社会に出てしばらくして、人は平然と「頑張れ」を割とマイルドな応援の言葉として使ってきましたが、小学校の通信簿くらいまで記憶を遡らせた時、その時、あなたに向けられた「頑張れ」は一体どんなニュアンスだったでしょうか?

 この言葉を否定的だと捉える私の記憶は、「頑張れ」とはつまりこれであると言います。

 

「もっと頑張りましょう」

 

 先生や大人たちが言う、「ほら頑張って」は、そりゃ確かに応援や励ましのつもりかもしれませんが、往々にして『その瞬間、相手が思う満足の水準に達していない場合』に使われていたことでしょう。

 運動会のリレーで、足が遅くてビリケツでのゴールが決まっている時に聞こえる「頑張れ」は、ネットでよく語られるトラウマの一つですね。私は運動が出来るほうだったのでこれについては全く共感出来ませんけど。

 学生だった頃に使われてきた「頑張れ」は、多分社会人になって周りから言われる「頑張れ」よりも、圧倒的に「努力しろ!」と訴えてくる濃度が強かったのではないかなと思います。

 鋭利なんです。鈍器なんかじゃなく、刺さるんですよ。

 さて、私は認めてもらいたいマンです。それも、今の自分をありのままの自分を何もしていない自分を勉強せずに授業を受けただけの頭で実力テストを受けた自分を認めてもらいたいマンです。

 そんなマンにとって「頑張れ」は、「そのままじゃダメだからもっとなんとかなれ」と変換されて聞こえます。

 事もあろうに、「頑張れ」の前文に、相手が思う「頑張った先にあるあなた(=私)の姿」なんてものを添えられた日にはもう取り返しがつきません。

 とはいえ。私も心に千人単位でピーター・パンを宿しているとはいえ、すっかり成人してしまった大人です。国語力もそこまで低くないし感受性や想像力なんかもそれほど欠けていないので、相手の言葉の雰囲気や表情、文脈から、「これは別に努力を押し付けるタイプの『頑張れ』じゃあないな……」くらいのことを読み取ることは出来ます。

 さりとて塵は積もるし、山になるのです。

 私は生活の都合上、特定の同一個人から半年以上に渡って何かと応援される機会がありました。

 その人が言うのです。「頑張ろう、頑張ろう」と。

 そこで私が私なりに頑張り(一般人の頑張りを100だとしたら1くらいの頑張りですが、私にとっては100の頑張りです)、なんとかボロボロのイカダを作って船出に出ようとすると、その人は善意からこう言います。

「もっと良くなるために頑張ろう」

 この時、私は強く思うのです。ああ、否定されている、と。私が頑張って、身を削り、血を絞る思いで踏み出した頑張りの一歩をあっさりと「そんなの頑張りじゃないよ」と言って、更なる高みを要求してくるのです。

 その人はきっと、私が作ったボロボロのイカダでは、航海の序盤も序盤であっさり難破してしまうだろうことを見越しているのでしょう。

 だからもっと安定した航海が出来るように、頑張って船を強くしようと提案してくれているものだと思います。

 それも……その「頑張れ」がきっと私の『頑張る力』になるのだろうと信じて疑っていないのかもしれません。

 でも違うんです。

「頑張れ」は決して、絶対に、何があっても、私が行動するエネルギー源になりやしないんです。ただただそれは、私が心に立てた小さな旗を、踏みにじり折ってしまうだけの言葉なんです。

 こんな人間が他に居るのかは分かりませんが、こんな人間がその時何を思っているのか、何を欲しているのかを結びにさせてもらいます。

 私がボロボロのイカダに向けて言って欲しい言葉は、更なる高みを期待する言葉なんかじゃないんです。

 ただ肯定だけをして欲しい。

 それでいいと言って欲しい。

 まあ、実際にそれじゃダメなのかもしれません。「頑張れ」が私の原動力になるなんて微塵も思ってなくて、愛されたい私が産んだ幻想にすぎなくて、その人はやっぱり普通に「それじゃ全然足りないからもっと努力しろ」と言っているだけにすぎないのかもしれません。いや、そうなんじゃないかな? そんな気がしてきた。そうなんだろうなぁ。やっぱり私の努力はちっぽけで無意味、無価値、優勝者以外は全て敗者で、ボーダーラインに達しない頑張りは全部不合格に違いない。はーそんな社会。そんな社会だから弾かれた。

 頑張れ的な積極的応援と違って、肯定するというのは消極的な応援になります。

 それでいいよと言われたら、きっと普通の人が「頑張れ」と言われた後のように走り出しこそしないかもしれませんが、それでいいよと言われたら、きっと普通の人はそのまま前に進むでしょう。

 甘ったれたダメ人間であっても、肯定され続ける限りは、それを続けていくんです。

 これまでダメであることを肯定されてダラダラと生きてきたように(この場合は肯定があったというよりも、積極的な否定がなかっただけのパターンが主かと思いますが、大体結果は変わらないのでどっちでもいいです)、たとえ荒波に挑む船がビート板程度にしかならないかもしれないボロボロのイカダであったとしても、そのイカダを肯定さえされれば、ダメ人間も海へ漕ぎ出すのです。

 何故ならそれは、自分が頑張って頑張って頑張って作ったイカダなのだから。

 甘ったれたダメ人間は、強く頑張ることこそ出来ませんが、頑張った自分を裏切るような真似もしません。

 甘ったれたダメ人間は、自分が大好きだからです。大好きな自分が作ったイカダをわざわざ海にも出さず燃やすことはありません。

 もちろん案の定難破して、命からがら島に戻り、漕ぎ出す前に逆戻りすることもあるとは思います。

 ただ、このダメ人間がダメ人間なりに頑張って作ったイカダを、海にも出さず否定するのは、もっと頑張れと言ってしまうのは、どうか、できればどうかやめてほしいんです。

 甘ったれたダメ人間は叩いても伸びません。褒めたところで、別に目を見張るほど伸びるかと言ったらそうでもありません。ただ、褒めている限り、肯定している限り、認めている限りはきっと、続けていけるのは違いありません。

 ダメ人間の小さく見える頑張りを、どうか許して欲しいんです。

 せめて社会にはそれくらいの空間があって欲しいんです。

 甘ったれたダメ人間が、波打ち際でのたうち回るくらいの空間が……。